旅立ちの記

 暦還りが一旬した日、手元のノートに、「忘れること、忘れられること、それが私の六十歳の原点である」と書き込んだ。言わずと知れた、高野悦子さんの『二十歳の原点』からの転用である。

 高野さんへの思いは、ここではひとまずおくとして、書き込んだメモ中の「忘れられること」はすぐに消した。忘れられるのは、望むと否とにかかわらず、当たり前のことだ。何もしなくても、すぐに忘れられてしまうに違いない。 

「忘れること」も同様ではある。最近、自分のことさえはっきりと思い出せなくなるほど物忘れがひどくなり、ボケが始まっちゃったんじゃないかと不安になるくらいである。記憶が欠けているわけではない。夢の中にいるように、昔のことが何だかぼんやりしているのである。例えば、自分はこの数十年何の仕事をやってきたんだっけと、ふと思ったりする。がむしゃらにもくもくと働いていたように思うのだけど、これをやった、なし遂げたという実感がない。ああ、そういえば、こういうことがあったんじゃなかったかなと感じるのである。それでも、明確に思い出せるわけではない。事実あったことであると確信が持てないのである。

 我ながら、老いたなと思う。しかし、老いて忘れていくのは自然のことだ。受け入れればいい。つらかったこと、悲しかったこと、苦しかったことなど、忘れることが救いとなることもあるだろう。忘れることで心が安らぎ、日々穏やかに暮らせるということもあるかもしれない。しかしながら、一方で、忘れたくても、決して忘れられないこともある。人生は、後悔に満ちている。他人に知られたくない恥ずべき行動がなかったわけではない。なんであんなことをしてしまったのか、やらなきゃよかったと、いつまでも自分を責め続けて、忘れることができない。迷惑をかけたことや傷つけてしまったことを、わびたい気持ちでいっぱいである。さらに、その時々でできなかったこと、できなくて安易に諦めてしまったこと、疑問に思いながらもそれが一体何なのか、なぜそうなのか、分からなかったことや分かろうとしなかったことなど、なぜもっと努力しなかったのかと自責の念にとらわれている。また、あの時自分にもっと力があれば、もう少しだけ時間の余裕があれば、守れたのに、助けられたのにというつらく苦しい思いが今でも心に深く刻まれ、時の経過によっても、その思いが薄らぎ、消え去ることはない。

 大事なことは、忘れて何一つ覚えておらず、後悔やつらい思いは、老いの中に閉じ込めてしまって余生を過ごすのは、なんとも情けなく、ひどくみじめだ。そう思いながら、なにもしないまま、5年余りが過ぎた。

 ふと、気掛かりなことややり残したというような心残りにしている身近な事柄から一つずつ潰していったらどうかと考えた。謝ってなかったり、お礼を言い忘れている人も大勢いる。それを少しずつ解決していけば、その過程で本来やるべきだったことを見いだせるかもしれないし、真の自分の姿や役割を思い出せるかもしれない。老いていく自分を忘れるための完遂と解明の旅、すなわち「自分忘れの旅」。若い人たちが明るい未来を夢見て、可能性を信じてチャレンジする「自分探しの旅」からの逆転の発想である。悪くない。何かが変わるきっかけになるかもとぼんやり思う。

 懐かしい場所や行ったことのない所に、これから実際に行った際の旅の記録はもとより、これまで住んできた多くの土地の良かったところ、周りの人々との素敵な出会いや楽しい交友の思いでを紹介したり、培った知識やため込んだ思いを自分なりに整理したりして、ここに記していきたい。飽くまで個人的なものではあるが、興味ある役に立つ情報も発信できるかもしれない。

 65年もため込んだものだ。忘れたいことは山のようにある。余生は短く、残された時間は少ない。さあ、スケッチブックとペンをとって(この表現は観念的なものである。)、旅に出よう。


コメント

“旅立ちの記” への1件のコメント

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